ヒップホップとの出会いA〜アメリカ ゲットーの真実


「ゲットー」という言葉はイタリア・ヴェネチアの地名『Ghetto/ゲット』に由来する。
起源は中世で、ヨーロッパ都市の内部に強制的に設けられた
ユダヤ人居住地域を指す言葉だった。
城壁で隔離され、内部はユダヤ人の共同体で
かなりの自治がゆるされていたが、
外部に対してはユダヤ人バッジの着用を強制され、
市民権も否認されていた。
そのほとんどが19世紀末までに消滅したが、
東欧では20世紀まで存続する。

第二次世界大戦中、ナチスが設けた「ゲットー」は
ユダヤ人の居住地区ではなく、その強制収容所のことであり、
ユダヤ人の絶滅を目的に作られたものである。
現在「ゲットー」は特定の人種や社会集団の居住する区域を指す言葉となり、
アメリカでは黒人居住区がそれにあたる。

「ゲットー」という言葉を聞いて、日本人は何を連想するのだろうか。
私は10代の頃、単にスラム街(貧民街)を指す言葉だと思っていたが
それは大きな間違いだった。

アメリカのガイド・ブックを見れば、ところどころに「注意」と称して
次のような文章が書かれていることに気がつくだろう。
それは「このあたりには非常に治安の悪い地域があるので、
昼間でも決して歩いて行かないこと」といった警告文である。
日本において、歩いてはいけない地域なんてない。
なのにアメリカにはある。それがゲットーなのだ。

「なぜ黒人居住区が危ないのか?
これは差別ではないか!」と私はずっと思っていた。
ところが、その実態は私の予想をはるかに越えるものだった。

1957年に人種差別撤廃措置が施行されてから、
一部のアフリカン・アメリカンが社会進出を果たして中流化し、
ゲットーから安全な郊外へと移住していった。
ところが多くの黒人は、そのまま劣悪な環境の中に取り残され、
保守化政権の下でますます貧富の差が拡大して
彼らの生活はよりすさんでいったのである。

しかし、私はブルースやR&B、ソウルのリリックから
ゲットーの惨状を知ることはできなかった。
ブラック・ミュージックの担い手のほとんどがゲットー出身であるにも関わらず!
なぜなら、それらの歌詞のほとんどは、
恋愛や失恋を題材にしていたからだ。
もちろん中には
刑務所生活や、借金苦、拷問に関して歌った曲もいくつかあったが、
それらは私の心に食いこんでこなかった。
代わりに、モータウンのアーティスト達はおとぎばなしのような
ラヴ・ストーリーを歌い、リスナーを甘い夢の世界に誘ってくれた。

だが、1971年にマーヴィン・ゲイがアルバム
「What's Going On/ホワッツ・ゴーイン・オン」をリリースしたことで
状況は少しずつ変わっていく。
マーヴィンは抑圧に対する反感を堂々と言葉で表現したのである。
病んだアメリカ社会に対して、
彼は「いったいどうなっているのか」と心から訴えた。
彼はこの作品によって、
ポピュラー・ミュージック界に金字塔を打ち立てたのだ。

時を同じくして、アフリカン・アメリカンやヒスパニック系のコミュニティでは
ヒップホップ・ミュージックが産声をあげ、
ストリートの惨状をありのままに語るラッパーたちが出現して
ゲットーの現実が少しずつ明るみに出てきた。
それでも、ゲットーが実際にどの程度危ない場所なのか
我々日本人にはリアルに伝わってこなかったと思う。

よって、J君から、「アメリカの平均寿命は75歳ぐらいですが、
ゲットーの平均寿命は35歳です。」という説明を受けた時、
私の顔は 「ムンクの叫び」状態になった。
「35歳??? 今から600年前の室町時代の寿命とほぼ同じではないか!
なぜ先進国のアメリカで、今だにそんな地域が存在するのだろう?」

アメリカのゲットーでは貧しさゆえに栄養失調や病気で
亡くなってしまうこともあるかもしれない。
でも、もっと悲しい現実が他に存在したのだ。
それは、
映画『Boyz N The Hood/ボーイズン・ザ・フッド』(1991年)を観た時に判明した。
「hood/フッド」とは「neighborhood/近所」から派生した言葉で、
「ゲットー」を表すスラングである。

映画の舞台はロスのサウス・セントラル地区で、
そこは空港からハイウェイを使えばおよそ30分足らずで行ける場所。
いったいそこでどんな日常が繰り広げられているというのか?
暴力や犯罪がはびこる危険地帯で暮らさなければならない
3人の若者にスポットがあてられ、ストーリーは展開していく。

監督はジョン・シングルトンで、彼は両親が10代の時に生まれた。
映画の中の主人公"トレ"と同じ境遇である。
つまりこの映画は、シングルトンの半自伝的映画だったのだ。
彼はサウス・セントラルで育ちながらも両親の教育のお蔭で
悪の道にそれることなく大学にまで進学し、
卒業した年にこの映画を製作した。
若干23歳の時である。
そして彼はこの作品によって
史上最年少でアカデミー賞監督賞にノミネートされるという偉業をなしとげた。

ロスではコンプトンやワッツ、ランバート、インペリアル・コートといった
「ジャングル/無法地帯」が存在する。
コンプトンはもともと白人居住区だったが、黒人家族が一つ、二つと
越してくるうちに、白人家族は徐々にそこから立ち退き
しまいにはゲットー化してしまった地区である。

「ジャングル」では麻薬の売買が至る所で行われ、強盗が多発し、
ギャング団が銃を持って敵対するグループを威嚇している。
時に彼らは車を乗り回しながら標的を探し、
一般人が運悪くそのターゲットにされてしまうこともある。
そして顔が似ていたとか、ムシャクシャしていたという理由で
車中から発砲されて、一瞬のうちに殺されてしまうのだ。
彼らは無差別に相手を選び、子供にまで銃口を向ける。
これは映画の中だけの物語ではなく、
今、実際にアメリカのゲットーで起こっている出来事なのだ。

元気よく「行ってきます」といって仕事や買い物に出かけ、
数時間後には無言の帰宅をするということが、
ゲットーでは日常的に起こっている。
映画の冒頭にメッセージが書いてあった。
「アメリカの黒人男性のうち20人に1人が殺されている」と。
それも同じ人種間で殺し合いをするよう、仕向けられているらしい。

つまり、こういうことだ。
あるグループに所属する若者が他のグループのメンバーに殺されたとする。
すると数日、もしくは数週間のうちに、殺した若者は
殺された若者がいたグループのメンバーによって死の制裁を受ける。
「目には目を。歯には歯を。」の論理で仇打ちが行われるのである。
それが延々と続くため、ゲットーの若者が徐々に減っていき、
その地区の平均寿命がどんどん下がっていく。

アメリカでは独立戦争以来、銃の所持が法律で認められており、
各家庭に1〜2丁の銃があるという。
その結果、約2億5千万丁にものぼる銃が私的に所持されている。
銃を買う世代は主に20代から30代の若者だ。

映画の中で、"トレ"のお父さんがコンプトン地区に
息子とその友達の"リッキー"をわざわざ連れて行き、
「住宅ローン」の看板を見上げながら以下のような説明をした。
「『環境改善』と称して、一部の人間がふところを肥やしている。
土地の値段を下げて住んでる人間を安く追い出し、
高い値で土地を売る。
黒人は黒人地域を自分の手で守るべきだ。黒人の金でね。」

そして、父親はゲットーについてこう語った。
「黒人地区になぜ銃器店が多いのか教えよう。
黒人地区に酒屋が多いのと同じ理由だよ。
銃や酒で黒人を自滅させようとしてるのさ。
それが狙いだ。
新しい世代を断てばその人種は滅亡する。
毎晩この辺の路上で死んでるのは黒人だ。
それも若者だ。 『先に撃たなきゃ殺される!』
それが奴らの狙いさ。真剣に未来を考えろ。」

この言葉を聞いた時、私は強いショックを受けた。
「まさかそれが狙いなのか?
自分達の利益のためにアフリカから黒人を奴隷として強制的に連行し、
今度は自滅の道を歩ませようとしているなんて!」
ジョン・シングルトン監督が最も伝えたかったゲットーの真実。
これが本当だとしたらとんでもないことである。

映画のラストで"ダウボーイ"役のアイス・キューブが、
殺された兄"リッキー"を回想しながら淡々と話すシーンが印象的だった。
「テレビはなぜ報道しないのか。『この街で起こっている事を・・・』
外国のことばかりで、リッキーの事は一言も・・・奴は死んだ。」
アイス・キューブはギャングスタ・ラップのさきがけで、
俳優としても成功したラッパーである。
ストリートで厳しい現実を目の当たりにしてきた彼は、
心の底からこの言葉を言ったに違いない。

私は映画を観終えた後、すぐJ君に聞いた。
「あそこで描かれている殺し合いは本当なのですか?
誇張していないですか?」と。
そうしたら彼は「本当の事だ」と教えてくれた。
「昔のゲットーも今のゲットーもあまり違いはないです。
でも、今はもっと恐い銃があります。」 J君はそう言った。

もちろんアメリカにおける全てのゲットーで、
このような銃による殺人が
日常茶飯事起きているとは思いたくない。
ある特定の地域で起こっている事実なのだろう。
現にニューヨークのハーレムでは1990年代から街の治安対策が強化され、
再開発と共に治安も驚くほど向上したという。

でも、アメリカにはサウス・セントラルのように
治安がめっぽう悪いゲットーが数多く存在し、
子供達は日々命の危険にさらされながら学校に通い、
路上で遊んでいるのである。
父親は離婚か蒸発でいないことが多く、母親も麻薬中毒だったり、
兄弟の誰かが刑務所を出たり入ったりしていることも少なからずある。

映画の中で1歳ぐらいの幼児がフラフラと道を歩いていて
車に轢かれそうになったところを"トレ"が助けるシーンがあったが、
その母親は子供の事などそっちのけで自宅でヤク漬けになっていた。
それがゲットーの現実なのだ。
日本では想像もつかない状況が、リーダー国アメリカで起きている。

このままゲットーを放置しておいていいのだろうか?
どうにかして住民(特に子供!)が
安心して生活できるような環境を用意してあげたい。
それにはいったいどうすればいいのだろうか?
ゲットーをなくすことはできるのだろうか?

この映画はゲットーに住むアフリカン・アメリカンの日常を描くことで
アメリカが抱える深刻な問題を我々に伝えようとしたのだ。
彼らが一番望んでいるものは「平和」なのである。
どうしたらそれを手に入れることができるのか。
同じ人間として、私も一緒に考えていきたいと思った。


<07・5・6>



































John Singleton